闘病日記

膵臓癌を患った私の生い立ちと父の死

2020年2月13日の日記

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いつの日からか夜、眠れない

今日は深夜に目覚める事なく今ほど起床しました照れ

10日分もらったマイスリーもあと2錠。

今度は21日に通院予定です。

どうしよう…無くなってしまう。

(マイスリーは常用化するとだんだんと同じ量では寝付けなくなる…)

 

『お昼寝出来てるから、夜は無理に寝なくても良いのでは?』

とアドバイスを頂きましたので、あまり気負わず

 

「いっそ寝れるまで起きておこう」

の精神で来週末までやってみます。

 

昨日は職場の上司からLINEでメッセージが届きました。

『あまり落ち込まずに治療出来ているか?無理せず、完全に治して返ってこいよ、皆待ってるから。』

 

本当にありがたい話です。

最後にこう書かれていました

 

『困った事があったら本当に何でも言って来て欲しい。社交辞令は悲しすぎるからさ。』

 

 

私は関西で生まれ育ちました。

 

大学を卒業後22歳で同じく関西の会社に就職、親元を離れました。

(実家のルールとして“働き出したら家を出る”というものもありましたので…。)

 

その後2年で2回転勤して迎えた3年目の人事異動、関西から約700km離れた土地へ転勤となりました。

(当時は転勤=昇格でした)

 

24歳で遠隔地に転勤。

ここに住んで14年です。

 

こちらで結婚し家庭が出来た事もありましたので、その後は会社の恩情で転勤はありませんでした。

(昇格がブラ下がった転勤のお話は、その後も何回も頂きましたがあくまで“内示”でしたのでお断りさせて頂きました。

でも…それが辞令だったらもちろん、たとえ単身赴任でも行っていたと思います。)

 

 

ずっと

「親も兄弟も親戚も遠く離れた土地にいる。何かあっても頼れない。」

「知らない土地、踏ん張らないと。誰も助けてなんてくれない。」

「家族以外信用できない。」

 

もうただの

“意地”

でした。

 

転勤先でも何も考えずに“関西弁”を使っていたので、

夜中に車のガラスを割られたり(車のナンバーも関西でした)

心無い手紙が入っていたり…警察を呼んだ事も数回ありました。

(昔は今みたいに関西の芸人さんがTVに出る事も少なかったので、乱暴に聞こえていたのかな?)

 

でも嫌がらせをされればされる程、変な意味で強くなってしまっていました。

 

同期も上司もみんな敵。

仕事・仕事・仕事。

 

勝たないと。

評価を得なければ。

負ければ悲惨。

 

ドロ水飲んでも役職を上げて、

家族を豊かにしてやる。

 

 

父親が危篤の時も仕事を休んで会いに行くなど、全く頭に無く。

 

「まだ死んでいないのに仕事休めるはずがない。死んだら帰る。」

 

母親が心筋梗塞で倒れた時も

 

「状況はどう?仕事休んで病院には行けないわ。喪主はやるから。何かあったら連絡して。」

妻は

『すぐ帰ろう!!仕事なんか休んで!!』

と何回も何回も言っていましたが、拒否しました。

 

 

・・・ありえませんよね。

でも本当にそんな感じでした。

 

だから膵臓癌になったんです。

 

家族の前で涙を流して泣いた事なんて、

ただの一度もありませんでした。

 

 

今、本当に思います

罰が当たった

んだと。

 

 

 

癌が私にたくさんの事を教えてくれました。

 

実は私の周りには頼れる人がたくさんいました。

 

実は、愚痴を言って泣き言を言って、

目の前で涙を流せる

家族がいました。

 

実は、仕事を休んでも周りの同僚が上司が穴を埋めてくれます

 

そして私の拙い文章ですが、それを読んで下さる方がいて、励ましのお言葉まで下さいます。

 

父親は危篤後数時間で亡くなりましたが、

母親はいつまでも私の事、“子供”のように心配してくれます。

 

 

癌になって良かったなんて、

そんな事はさすがに、一切思いません。

 

でも気付けました

 

ありがとうございます。

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